あるアーティスト

こちらのサイトでディナ・ブロドスキーというアーティストのことを知りました。そこらへんに腐るほどいる実体を伴わないアーティストではなく、本格的に技術の確かな絵描きさんです。主にミニチュアの絵を描いていらっしゃいますが、あくまで写実的なのに夢の一幕を見るような感じがあってすばらしいです。目を遠くに誘わずにいられない奥行きもあります。

彼女のウェブサイトはこちらです。私は実はどうももう長いこと気持ちが落ち込んでいるような感じがあり、どうしたらいいのか分かりません。そうは言っても別に普通にしていて元気だし、お店では毎日お客さんに過度な愛想を振りまいているので、何がどう落ち込んでいるのかは自分でもよく分からないのです。でも、何だかどうも人生に気乗りがしない、するべきことはあるのに暇で暇でたまらない感覚とでも言いましょうか、まだ季節が早いけど冬眠して再来年くらいまで寝ていたいような気持ちです。たぶん、こうやってぐだぐだ言ってないでディナ・ブロドスキーさんのように絵を描けばいいのだと思います。落ち込みの原因はアートにおける怠惰だと思うのです。独創性だの何だの気にせずに、今流行りのコピペやトレースをどんどんやっていくべきでしょうね。私もオリンピックのロゴを考えてみようかな。。。

そういえば、今はときどきジムに行って運動をしています。大したことはしませんが、ウォーキングマシンで早足で歩いていると、気持ちが集中していい感じです。集中してないと落っこちるから集中せざるを得ないのです。
Commented by みち子 at 2015-08-25 04:13 x
葉子さん、しばらくです。

葉子さんの言う「気持ちの落ち込み」は実によく分かります。やっぱり自分が心の底でやりたいと思うこと(もしあれば)をする事がいちばん良いのだと思います。私も日々、本を読んだり雑用を片付けたりボランティアの仕事をしたりで、けっこう忙しいのですが、空しい気持ちから抜けきれません。私の場合、あと何年くらい生きるのだろうという事も含まれます。

本を読むことは私にとってとても大切なのですが、それだけではだめです。前々から絵を描きたいと思いながら全然描いていなかったのですが、2年前から少し始めました。やりたいと思いながらやらないで死にたくないと思ったからです。世に認められるような絵を描けるわけではないのですが、でも、それで今はほんのちょっぴり空しさが減ったような気がします。

私の友人が以前「何をするにしても、それが認められ運がよければ収入につながってこそ、した事に意味がある」と言いました。聞いたときは非常に現実的な考えと思いましたが、しばらくして、これは名言だとじわじわと思いました。
Commented by ammolitering6 at 2015-08-25 12:18
認められ、運がよければ収入に繋がってこそ意味がある、、、そうでしょうか。行為が誰にも認められないことは多々あると思います。むしろ、それがほとんどではないでしょうか。でも、それが自分では分からないところで長期的に意味があったり、死んでから何百年も経って誰か一人の心に響いたり、いろんな波及の仕方があると思うのです。お友達のおっしゃったことの真意は何なのだろうかと考えてしまいます。

怠慢で運動しないと体液の循環が悪くなって気持ちが落ち込んでいくように、頭を使って創作なりなんなり自分のとって大切な刺激を与えなければ、同じく気持ちが自動的に落ち込んでいくのかもしれませんね。

今日は散らかっていた身辺の片付けをしました。要らなくなったものを捨てたり、忘れていた物を発掘したりして、だいぶ気持ちが整いました。寿命ばかりはどうしようもありませんが、私はとりあえず人生の締め切り時間を(神様の意向と無関係に)決めているので、それをもとにして残高を計算しています。鬱々としたときはそれを思い出すようにしています。空しさに流されて時間を無駄にしないようにしなければいけませんね。

私のお友達に90歳くらいのアーティストが二人いらして、どちらも活発に活動を続けていらっしゃいます。どちらも有名画家などではないからたくさんの作品を残してもアートの歴史に影響を与えるようなことはないのですが、落ち込んだときの私の心には大きな影響を与えてくださるので、それはそれで意味のある活動なのだと思います。みち子さん、どう思われますか?
Commented by みち子 at 2015-08-26 04:30 x
もちろん何事も人や社会に認められたいからしているのではないと思います。まったく自分のためだけにすることもあるし、芸術の場合は死後に認められることもあります。キリストが言ったように「善行をするなら人が見ていないところでしなさい」という教えもあるし、認められなくても収入にならなくても、したいからする事もあります。宗教的な修行などになると、これは全く自分のためだけとも言えます。

小説を書くとか音楽をつくるとか絵を描くとか、何かクリエイティブな仕事の場合、かならず認められたいという気持ちがあるはずです。科学の研究でさえ、ある科学者が「どうして研究して成果を上げたいかと言うと、発表したいからだ。科学者が純粋に真理の追及だけの目的で研究している訳ではない」と書いていました。

人に読んでもらいたいと思わないで小説を書く人はいないと思います。そのような意味で世に認められてこそ意味があるということだと思います。

いまボランティアの仕事をしていて、うまく頭が回りません。また何か思ったことがあったら書きます。
Commented by ammolitering6 at 2015-08-27 01:52
クリエイティブなことに限っていえば、そういうものかもしれませんね。描きたいと思う衝動そのものは、私の場合は特に誰かに認められたいという気持ちを伴うこともありません。でも上手になってきたら認められたいという欲が出てくるし、そうでなくても何か描いたり作ったりしたら身近な人に見せて褒めてもらいたいと思います。

でも、詩などは誰にも見せないものを書いている人は少なくないのではないでしょうか。日記の延長のようなものかもしれませんが。

褒めてもらいたい、認めてもらいたい、というのは本能的なものかもしれません。猫が飼い主に獲物を見せびらかすのと根本的には同じなのかもしれません。社会はそれに対して非常に厳しく、他人の行為や作品を寄ってたかってこてんぱんにけなすことが往々にしてありますが、そうしないで互いの努力を褒め称えるような社会になれば、もっともっと伸びやかな成長が期待できるかもしれません。
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by ammolitering6 | 2015-08-24 13:03 | Comments(4)

写真サイト3個目です。


by ammolitering6