アメリカ旅行 1

こんにちは。はるばる遠くアメリカまで行って、すぐに帰って来ました。アメリカへ行くとなるとどうも何だか緊張しますが、無事に帰ってくることができたのでほっとしています。それでは、今回の小旅行の様子などご覧下さい。

バスは早朝5時50分発です。20分前くらいには着いていなければなりませんが、そんなに早い時間の列車がないので、タクシーで行きました。アメリカまでの往復8時間ちょっとが50ドル、5分もかからぬタクシーが10ドル、得てして世の中はこんなものだな、と思います。バスのターミナルは鉄道の駅の片隅にあるので、ロビーが立派です。
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乗り場から、、、
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グレイハウンドのバスに乗ります。アウトドアスクールへ通っていた頃を思い出します。
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夏だし、シアトル行きだし、きっとシアトル日帰り観光を敢行する若者たちで満席に違いないと思っていたら、全然違いました。なんと、バンクーバーから乗ったのは総勢5人という淋しさです。これじゃあバス会社も赤字だろうな、と思います。
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早いのでまだ眠いし、眠れるわけでもないのですが目をつぶっているうちに、アメリカとの国境に着きました。ここまでは1時間ちょっとです。
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バスの中はがんがんに冷房がきいていて寒いので、大判のスカーフを持っていって膝にかけていました。実はこれ、私がデザインしたスカーフなのです。
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いらっしゃいませ、アメリカへ。私が当たった税関の係りの人はフレンドリーな黒人のお兄さんでしたが、機嫌の悪そうな白人のおばさんに当たった人は何事か鋭く怒鳴られていました。前回は私も中国語訛りのおばさんに激しく怒鳴られたのだったなと思い出します。提出する書類を置く位置が違うっ!!ということで怒られたのです。ともあれ、アメリカへ入ってからの景色はほとんど見ていません。なぜかというと、、、
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アメリカを出たばかりのときから通路を挟んで隣に座っていたおばあさんとお話しをしていて、みっちり2時間半に渡っておばあさんのお話を伺っていたのです。77歳になるBさんは、生い立ちのこと、仕事のこと、家族のこと、原住民文化のことなど、問わず語りに語ってくださいました。彼女は原住民独特の穏やかな小さな声で、話と話の間に間隔が空くのも原住民の話し方の特色です。バスの中だし、少し耳が遠い上に弱視でいらっしゃることもあって、私は通路越しに身を乗り出すようにして聞きますが、しばらくぼつぼつとお話しになり、静かになったので終わったかなと思って体勢を戻したら、その途端に次のお話が始まります。それの繰り返して2時間半なので、最後のほうにはかなりくたびれました。

でも、話してくださったことそのものは興味深いものでした。そもそも、原住民のお年寄りとお話しする機会もあんまりないのです。忘れないように後でフェリーに乗ったときに思い出して書き留めておきました。それを見ながら振り返ってみましょう。

最初は山火事の話をなさっていたのでした。コキットラムというところに住んでおられますが、ここは郊外なので雑草が伸び放題のところがあちこちにあり、それが最近の乾燥で枯れ草になっています。だから火事になる危険があって草刈ができない、とおっしゃるので、なぜだろうと思って「草刈をしたほうが火事の恐れが減るのではありませんか?」と尋ねると、Bさんは「それはできない」とおっしゃいました。草刈をしようとすると、草刈機から出る火花が引火する恐れがあるので、雨が降るまでは禁止令が出ているのだそうです。そういうことがあるなんて、思いつきもしませんでした。彼女は続けて、コキットラムのあたりでは放火騒ぎも2件あったとおっしゃいました。あちこちで燃えているので面白がって火をつける不届き者がいたそうです。とんでもない連中だ、とBさんは憤っていらっしゃいました。

ところで、彼女はクウィクウェトレム族の原住民(自称はインディアン)ですが、これはコキットラムという地名のもとになっています。ここには原住民居住区があり、リバービュー精神病院跡地の使用に関するワークショップ(覚えておいででしょうか?)のときには一般市民対象のワークショップの他にクウィクウェトレム族限定の非公開ワークショップも開かれました。彼らはこの広大な土地の所有権を主張しているので、市当局と利害が対立しているのです。公的には市の土地であっても、ここで何千年も生きてきた彼らの意向を汲まないわけにはいかないので、こういうのってほんとに難しいだろうなと思います。

彼らは居住区(リザーブ)も共同体(コミュニティー)または村(ビレッジ)と自称します。残念ながら彼らはBさんのような年長者であっても既に自分たちの言語を失っていますが、近くにはマスキアム族など今でも自分たちの言葉を守っている部族があるので、Bさんも1年前から習っているそうです。もう一年もすれば多少とも流暢に話せるようになるはずよ、とおっしゃいました。

Bさんは先日テレビで見たという番組の話もなさいました。それは中国人がサンフランシスコのあたりに万里の長城に似た城壁を作っていた形跡が見つかったというもので、コロンブスよりも前に、1300年頃に来ていたらしい、という内容のものでした。その中国人たちはおそらく太平洋を渡ってきたのだろう、という話とか、日本の島の人たちはインディアンと同じ遺伝子がある(?)、とかいう話をしたあとで、私は「それでは北米の原住民はどこから来たのでしょうか?アラスカ経由ですか?」と尋ねました。徒歩であれば、北のほうの土地がつながっていた頃に来たはずだからです。

ところがBさんは、それは人間がみんなアジアのほうから来たという考えに基づいている、とおっしゃいました。定説ではアフリカですが、この場合方向は同じです。そして、我々インディアンはここで生まれ、最初からずーっとここにいた、と言いました。なんとなく、そうなのかな、という気がします。恐竜だって、最初の哺乳類だって、何も必ずしも地球のどこか一箇所で生まれて広がったのではないかもしれません。Bさんのおっしゃるように、インディアンは北米の土地が生んだのかもしれません。コロンブスのことに関しても、「私たちがいたのに『発見』したとは何事か!」と語気を強められました。

Bさんはアメリカとカナダの二重国籍を持っています。コキットラムで生まれましたが両親が離婚して、お母さんが再婚したときに一緒にアメリカに引っ越しました。8歳くらいだったそうです。祖父は彼女が生まれるずっと前に、そして祖母は彼女が1歳になる直前に亡くなりました。そのためコキットラムとのつながりは希薄なはずですが、自分はコキットラムの子だという気持ちが強く、いつかきっと帰ってくると思っていました。アメリカで育って大人になってからは結婚してカナダに戻り、4人の子供を持ちながら離婚して女手一つで厳しく育て上げました。アメリカにも家族がいたので、週に一度は自分で車を運転してアメリカとカナダを行ったり来たりしていたそうです。

子供の頃は原住民が国境を渡るのには何の証明書も要らず、顔パスでした。でも、今ではパスポートこそ要りませんが原住民証明書が必要です。祖父母の時代は、女性たちは籠を編んでいました。材料は何だか聞きそびれましたが、たぶん木の皮とか何かの草だと思います。それが硬いので、歯で噛んで柔らかくします。そのため、年配の女性たちは皆、歯が磨り減っていました。今でも伝統文化を守るために籠を編みますが、歯で噛むのではなく水に漬けて柔らかくするのだそうです。Bさんは若い頃は忙しくて寝る間もろくになかったので、年とってから伝統的な手芸を始めました。ワシのついたヘッドバンドを作りましたが、ビーズを縫い付けるのは目が悪くてできなかったので、グルーガンを使って糊付けしてしまった、多少現代的だけどまあいい、と言って笑っていました。

今では原住民料理の代表みたいに言われるバニックという伝統的なパンについては、「あれは昔は誰もバニックなんて呼んでなかった、単に『フライド(この場合は加熱した、という意味)・ブレッド』と言っていた」とおっしゃいました。小麦粉とベーキングパウダーを混ぜて水で練って、オーブンなり何なり、その時々で都合のよい方法で加熱するだけ、という単純なパンなので、なぜこれがわざわざ伝統料理扱いされなければならないのだろうと私もかねてから不思議に思っていました。

これはたぶん、誰も作っていなかったドリームキャッチャーがあるとき急に伝統工芸扱いされて原住民の間で大流行したのと似た背景があるのかもしれません。カナダでもアメリカでも原住民の文化は壊滅的な打撃を受けたので、再興の機運が高まったときに原住民自身が見よう見真似でいったん事実上断絶した先祖の文化を過大評価して受け入れ、事実がよく分からなくなってしまった土壌の上で互いの部族から学びあって一気に均一化が進んだ、というのがあるのだと思います。これはいつだったか原住民の方がおっしゃっていたことなのですが、なるほどな、と思います。

男女二人ずつの子供を一人で育てていたので、ずっとカジノで働いていました。カナダではカジノはほとんどすべて原住民が所有しています。時給は大したことなかったけど、チップが良かったのだそうです。ビンゴのコーラーもしていたそうですが、主にルーレットのディーラーをしていて、暗算が得意だったので間違いがないことが自慢でした。自分ではギャンブルはほんのたしなむ程度しかしませんが、ギャンブルに溺れて人生を棒に振る人をたくさん見てきました。彼女によれば、スロットマシーンはお金を吸い上げるための機械だそうです。あるときなどは、24時間で100万ドルむしり取り、出したのは10ドルにもならない、という機械さえ見ました。

Bさんは、自分の人生は子供に捧げた人生だった、とおっしゃいました。週に13時間しか寝ないときさえあったそうです。子供たちは厳しくしつけましたが、体罰はせず、その代わり、悪いことをしたら運動をさせたそうです。タイムを計って家の周りを何周も走らせたり、腕立て伏せをさせたり、ドアを開けっ放しにして公園に行った子には公園と家を10回も往復させたり、、、その甲斐あって、誰も出来損なわず、努力もしないで生活保護に頼るような不心得者にもならず、今では孫が14人、曾孫が28人の一族になりました。みんなBさんを大事にしてくれて、しょっちゅう会ったり連絡を取り合ったりしています。Bさんは弱視でもできるだけ独立して、一人で暮らしているのです。小さな犬を一匹飼っていて、散歩などしていて大きな犬に会うと、彼はBさんを守ろうとして激しく威嚇するそうです。誕生日は7月18日で、これは娘と、そして曾孫の女の子とも同じ日です。女の子は今度1歳になるので、3世代揃ってお祝いをするそうです。

なお、彼女は白い杖をついていますが、先の方は赤く塗られています。これは全盲ではなく弱視であることを示すのだそうです。彼女は、カナダでは人々はこの杖の意味を理解して助けてくれるが、アメリカでは知らない人が多くて助けてもらえない、と言ってました。

Bさん自身は祖父母を知らずに育ちました。でも、その代わり、自分の孫や曾孫にはゆっくり時間を取って、たくさん話し、心を通わせるそうです。目下、息子の一人は離婚手続きの最中で、明日からは自分のところに引っ越してきて、仕事を探すそうです。家の中は家族の写真で一杯で、額縁は1ドルショップで安く買ってくるのだ、と言います。古物屋さんで安く買った毛糸などを使って、編み物で小物を作ってはプレゼントもします。バスの中で、全く見知らぬおばあさんの人生のすべてを聞いてしまいました。原住民は両手の平を上に向けて尊重を表す挨拶をします。「オーシアム」というのがそのときの挨拶だそうです。Bさんへ私も「オーシアム」と申し上げようと思います。
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by ammolitering6 | 2015-07-13 12:11 | Comments(0)

写真サイト3個目です。


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